消費者ニーズの多様化や人手不足などによって、さまざまな経営課題が生まれている昨今。神奈川県秦野市にある創業1918年の老舗温泉旅館「鶴巻温泉 元湯 陣屋」は、一時は倒産の危機に陥ったものの、デジタル技術を最大限活用することで困難を乗り越えてきたといいます。
歴史や伝統に育まれた「おもてなし」とDXやITをどう共存させたのか、そしてその過程で生まれた新規事業とは──。事業復活の立役者である4代目女将の宮﨑知子さんに伺いました。
株式会社陣屋/株式会社陣屋コネクト
代表取締役 女将
宮﨑知子さん
1977年生まれ。大学卒業後、メーカー系リース会社の営業職に従事し、第1子の出産を機に退職。2009年、夫の家業である「鶴巻温泉 元湯 陣屋」の経営に夫婦で携わることになり女将に就任。さまざまな業務改革を進めるとともに、「Salesforce」を基盤に開発したクラウド型顧客関係管理システムやICTの導入も図り、倒産の危機にあった老舗旅館を立て直した。家族は夫と子ども2人。
「鶴巻温泉 元湯 陣屋」は、建物ができた大正時代の面影を色濃く残す老舗旅館。昭和の時代には将棋や囲碁のタイトル戦の舞台になり、近年ではTVドラマ『リコカツ』(TBS系)のロケ地になったことでも知られています。緑豊かな森と美しい庭園、日本の古き良き「おもてなし」に出会える旅館として、古くから多くの人に愛されてきました。
しかし、10年ほど前には倒産の危機も経験。古くから受け継がれてきた旅館運営の手法が時代に合わなくなり、かつ業務改善や効率化に取り組むこともなかったためか、宮﨑さん夫婦が経営を継いだときには借金が約10億円にまで膨らんでいたそうです。
「陣屋は夫の実家ですが、経営の内情については義父が亡くなった後、義母(先代の女将)から相談を受けるまで何も知りませんでした。当時、夫はメーカー勤務のエンジニアで私は専業主婦。2人とも旅館経営に関してはまったくの素人でしたが、子どもたちに負債を残さないためには継ぐしかなかったんです」
そう語るのは、2009年10月に陣屋の女将に就任した宮崎知子さん。同じタイミングでご主人は社長に。当時はリーマンショック直後で旅館の買い手もつかず、借金はご主人の生涯賃金を超える額。会社員を続けていては返済できるはずもなく、旅館経営を軌道に乗せるしか道がなかったといいます。「でも、継いだ当時は勝算なんてまったくありませんでした」と宮﨑さん。
最初の1か月は「素人がいきなり何かしても皆の邪魔になるだけだから」と、スタッフの動きや人間関係、現場のオペレーションなどをひたすら見守っていたそうです。
そのうちに具体的な課題が見えてきました。その課題とは、「互いの動きが見えずスタッフ間の連携が取れていない」、「台帳も顧客情報もすべて紙で必要なときに必要な情報が探せない」、「稼働率の低い施設に人材が割かれ、せっかくの能力を生かしきれていない」など。
そこで、 まずは横の連携を強化するため、スタッフ間の連絡手段をシステム化することに。以前は、宿泊客のリクエストは厨房に置いたホワイトボードに皆が手書きしていましたが、これを見逃すスタッフもいて、お客様から「他の人に伝えておいたのに」と不満が出ることもあったそうです。
「スタッフ間の連絡手段が手書きだったため、どうしてもケアレスミスが出てしまっていたんです。ときにはお客様からお叱りを受けることもありました。こうしたことを防ぐにはどうしたらいいかと考えた末、システム化しようと思い立ったんです。でも、専門の会社に頼めるほどのお金はなかったので、かなり悩みました」
そのとき、ご主人が「クラウド型プラットフォームと自前で開発したシステムを組み合わせてはどうか」と発案。これなら、コストを抑えながら自分たちに合ったシステムをつくることができる──。元エンジニアならではのアイデアでした。後はシステムを誰に、どうやって作ってもらうか。またしても悩み出したころ、運命の出会いがありました。
「うちの人材募集に、たまたま元エンジニアの人が応募してきてくれたんです。採用担当は迷っていたみたいですが、主人が偶然履歴書を見て『明日から来てください』と(笑)。その方も、エンジニア志望ではなかったのですが、一から旅館のシステム開発をするならぜひやってみたいとのことで、フロント夜勤と兼務しながらシステムを構築してくれました」
こうして、女将就任から約半年後には 第一の改革「システム化」を達成。厨房にはホワイトボードに代わって大画面のモニターが設置され、宿泊客のリクエストから料理や配膳の進捗度、客室設備の不具合対応まで、スタッフ全員がすばやく共有できるようになりました。
同時に、台帳や顧客情報など、帳場に山積みになっていた書類もデータ化し、必要なときにすぐ取り出せるように。スタッフには「紙での保存が必要なもの以外はすべて捨ててください」と伝え、その後もずっとペーパーレス化を徹底しているそうです。
「改革前、帳場の机の上にはさまざまな書類が、今にも崩れそうなぐらい山積みになっていました。スタッフには、ペーパーレス化するので捨ててくださいと伝えたんですが、ずっと紙でやってきたからなかなか捨ててくれなくて。だから、書類が置いてある机を何日の何時に捨てます、それまでに机の上を空にしてくださいと、なかば強制的に片づけてもらいました(笑)」
そして第二の改革として、仲居さんたちにインカムの装着を導入。これもリアルタイムでの横のつながりに大きく貢献し、より目配りのきいた接客、すなわちおもてなしの向上につながりました。
「インカムもベテランの仲居さんたちには不評でした。機械が苦手、着物姿にそぐわないなど、当初は不満の声が圧倒的に多かったんです。そうした声に対しては、『最近は保育園でも、子ども全員に目配りするために先生たちがインカムをつけているんですよ』と説得しました。それで渋々つけてくれたんですが、実際に使ってみると仲居さん同士の連絡が劇的にスムーズになったということで、あっという間に全員が使ってくれるようになりました」
また、第三の改革としてチームの再編成や人材の配置換えも実施しました。これは、コスト削減を目指して2つあったレストランを1つに集約し、新たな収入源として残った1つを結婚式場に改装したため。突然の異動に不満を訴える人もいましたが、宮﨑さんは優秀な人材を生かすための異動、会社の未来を担ってほしいからこその異動だと懸命に説得しました。
「改革にはもちろん反発もありました。でも、経営事情をオープンに伝えて、いま改革しないと陣屋の未来はないんだと一生懸命訴えました。スタッフもようやく危機感を持ってくれ、2年半後ぐらいには改革の効果が出始めたんです」
さまざまな改革によって、古くから受け継がれてきたきめ細やかな接客に、スタッフ間の横の連携や適材適所の人材力が加わった陣屋。結果として総合的なおもてなし力が大幅に向上し、宮﨑さんは「お客様からお褒めの言葉をいただくことも増えた」と語ります。
そもそも、旅館スタッフのモチベーションの源泉は「お客様が喜んでくれること」。改革を進めるうちにこれを実感するスタッフも増え、やがて反発の声もなくなっていったといいます。
改革後の新たな陣屋は好評を博し、2011年には早くも効果が出始め、利用客も増加。その後も、だんだんとお客様は増加し、婚礼や披露宴の受け入れ、システム化などによるコスト削減も相乗効果を発揮。ついには経営を軌道に乗せることに成功しました。
「婚礼衣装を自前で用意したり、露天風呂付きのお部屋のように客室のグレードアップをはかったりと、利益のうち自分たちでコントロールできる部分を増やしていきました。
ただ、当館の自慢でもあるお料理は絶対に値下げしたくなかったので、同じ価格でもよりお客様に楽しんでいただけるよう、内容や季節感などに工夫を凝らしたんです。
同時にスタッフへの接客トレーニングも強化し始めたところ、お料理や接客に惹かれて来てくださるお客様が徐々に増えていきました」
さらに、自前のシステムを開発したことが思わぬ成果を生み出しました。他の旅館経営者と話すうち、業務の効率化やスタッフ間の連携に悩んでいるのは陣屋だけではないと気づいた宮﨑さん。やがて、自前のシステムをほかの旅館やホテルでも役立ててもらおうと、新たな挑戦を始めました。
それが「陣屋コネクト」。陣屋の経営立て直しに大きな役割を果たしたシステムを、クラウド型旅館・ホテル管理システムとしてブラッシュアップし、他の施設にも導入してもらえる形にしたのです。
「陣屋コネクトは、旅館・ホテルの経営や業務を立て直すためのICTシステムです。宿泊施設のシステムというと、まず予約管理をイメージされると思うんですが、それだけでは旅館やホテルは運営できません。ですから、陣屋コネクトは予約情報はもちろん、顧客情報や勤怠、設備などの管理から社内SNS、会計、経営分析までを一元管理できるようになっています」
陣屋コネクトは、旅館やホテルの運営に必要な業務を一括でシステム化できることから、画期的なツールとしてまたたく間に評判になりました。2012年には、このシステムを提供する事業を新規事業として立ち上げ、今では約450施設が利用。旅館事業を上回る収益を上げるようになり、現在の陣屋の存続にも、そして設備投資を含めた進化にも大きな役割を果たしています。
「陣屋コネクトは、もちろん業務の効率化にも役立ちますが、一番の目的はスタッフ同士の横のつながりを作り出すことです。皆が連携して動くことで初めて、本当にお客様に寄り添った接客が可能になると思っています」
1組のお客様に対して、1人のスタッフが出迎えから見送りまでずっと寄り添い続けるスタイルでは、多くの人手が必要になるうえ個々の労働時間も長くなってしまいます。これを防ぐには、複数のスタッフでチームを組み、しっかり引き継ぎをしながらお客様に寄り添っていける体制が不可欠。陣屋コネクトを使えば、この引き継ぎが格段にスムーズになるといいます。
実際、陣屋では多くのスタッフがタブレットやパソコンを駆使。お客様が訪れた瞬間から、これまでの利用回数やリクエスト、誕生日、記念日などをスタッフ全員が共有し、見送りの瞬間までそれぞれのお客様に合ったおもてなしを実践し続けています。現在の陣屋にリピーターが多いのは、このおもてなしが最大の要因と言えそうです。
「ご利用のたびに『来てよかった』と思っていただけないと、次にそのお客様にお目にかかることはできないと気を引き締めています。1回目より2回目、2回目より3回目と、常にお客様の期待を超えるおもてなしを提供し続けること。それが、当館の存続のかなめだと考えています」
SPECIAL | 特集
2022/08/01
【これから目指すべきDXとは】IT批評家・尾原和啓さんに学ぶ、「価値DX」から始まるアフターデジタル時代の顧客接点創出法
システム化を軸にして経営を立て直した結果、売上が2億9,000万円(2010年)から6億1,400万円(2018年)倍増。さらにおもてなしの質の向上にも成功した陣屋。デジタル技術が進歩する中、旅館やホテルのおもてなしは今後どう変わっていくのでしょうか。
宮﨑さんは、今後は非対面&非接触の宿と、対面に重きを置く宿に二極化していくのではと推測します。その上で「陣屋は後者。対面の接客をしっかりやっていきたい、その思いを裏で支えるのがDXやIT」と力を込めます。
「どんなにDX化やIT化が進んでも、おもてなしは人でなければできない仕事です。その時間を確保するために、機械にできる仕事は機械に任せる。それによってスタッフに時間や心の余裕が生まれ、さらに上のおもてなしを考えられるようになると思っています」
スタッフの余裕を考えて、陣屋では毎週火曜と水曜を休館日に設定。これによってスタッフの週休3日制が実現し、定着率も向上したといいます。休館日を設けるのは旅館業界では珍しいことですが、陣屋の場合はそのぶんの人件費や光熱費などが削減でき、かつ売り上げの面でも大きな影響は出ていないそうです。
休館日や週休3日制は、もちろんスタッフにも大好評。旅行や食べ歩きに行けるという喜びの声も多く、宮﨑さんも「積極的に出かけて、外で得た刺激を仕事に生かしてもらえたら」と語ります。
「当館の1週間の労働時間は、4日間で40時間。スタッフが交代制で休むので、通常なら勤怠管理が大変になるのですが、当館は勤怠もシステム化しているため、誰がいつ休みなのかがひと目でわかります。旅館の命は接客、つまりスタッフですから、彼らの労働環境を守るためにも、勤怠の可視化はとても重要だと思います」
そして、さらなる新規事業にも挑戦中。この夏には新たな予約システムを取り入れた「陣屋コネクト」をリリースするほか、地方の人手不足の旅館をITの力で支える実証実験も開始するそうです。
この実証実験は、宿を非対面&非接触のスタイルにして、経営者2人で運営できるようにするもの。宿泊客には食事も遊びも宿ではなく外で楽しんでもらえるよう、地域の飲食店やアクティビティーと連携して、宿泊も食事も遊びも宿のサイトから直接予約できる仕組みをつくりました。
陣屋では対面でのおもてなしを支えるシステムを、実証実験ではその宿や地域に合ったシステムをと、デジタル時代の宿泊に柔軟に取り組み続ける宮﨑さん。DX化に悩む経営者たちに、「いま自社が抱えている問題点を洗い出すことから始めれば、自然と自社に合ったDX化にたどり着けるのでは」とエールを送ります。
「陣屋にとってのDXは、“人にしかできないおもてなし”の時間を確保するためのツールです。人が人らしくおもてなしできるよう、そしてスタッフ全員が人らしく働ける環境づくりを目指して、これからもさまざまな改革に取り組んでいきたいと思います」
WRITTEN BY 辻村洋子 / PHOTO BY 畠中彩